東京リウマチ・ペインクリニック(関節リウマチ、慢性疼痛、慢性疲労の専門クリニック)

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診察
時間

【午前】9:00~12:00
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患者様の作品

  • 以前の患者様である立体刺繍作家の北井様が都内で個展を開催なさり、作品を拝見させていただきました。詳しくはこちら

  • 開院1周年を記念して、再発性多発軟骨炎の患者会様から頂いた写真立て

    開院1周年を記念して、再発性多発軟骨炎の患者会様から頂いた写真立て

  • 開院1周年を記念して、再発性多発軟骨炎の患者会様から頂いたプリザードフラワー

    開院1周年を記念して、再発性多発軟骨炎の患者会様から頂いたプリザードフラワー

  • 線維筋痛症友の会からいただいたプリザーブドフラワー

    線維筋痛症友の会からいただいたプリザーブドフラワー

  • 線維筋痛症と関節リウマチを合併されている患者様からいただいた立体刺繍(オニヤンマ)

    線維筋痛症と関節リウマチを合併されている患者様からいただいた立体刺繍(オニヤンマ)

患者様からのお手紙

・A.S様(80代女性)からお手紙を頂戴いたしました。

患者様の声

当クリニックでは、定期的に患者さんからアンケートを頂戴しています。
一部をご紹介させて頂きます。

Aさん 30代女性

平成21年9月、妊娠3ヶ月から腕、足、腰から背中が締め付けられて痛かった。まるで長時間金縛りにあっているようだった。別の表現をすると圧縮機械でジリジリ全方向から圧縮されているようだ。体は鉛のように重い。産科の先生に話すと、「妊娠すると人により色々な症状が出るが、途中で治まったり、長い人でも出産すれば、なくなる」とのことだった。出産するまでの我慢だと思っていた。

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 なんとなく手が変、寝違えたのかと思った。「が、なんで両手なのだろう。」1週間後両手足の関節が激痛になった。両手首両足裏も痛かった。この時1月下旬、私は妊娠7ヶ月だった。産科の先生から内科と整形外科でみてもらうようにと言われた。両科とも、関節リウマチの疑い、出産後すぐにリウマチ内科のある病院に行くようにとのことだった。痛かった。痛かったが何の薬も飲めなかった。「出産すれば治療ができるのだ」そう思って頑張った。
 4月に出産した。その2ヶ月後、これで治療ができるのだと思い、かなり腰が痛かったが電車に乗り、某大学病院リウマチセンターへ行った。「検査の結果リウマチではありません、他の膠原病でもありません」「どこに行けばよいですか?」「心療内科とか、」医師は私の顔を見ることもなく言った。「もう私には関係ない」という口調に聞こえた。やっと治療ができると思いで来た私は、怒りがわいた。
 その後も手足は変わらず激痛だった。起きてミルクをつくるにはまず手をお湯で温めなければ動かない、ミルクを飲んでいる間哺乳瓶を手指で支えることはできず、ひじの内側で支えた。その後、整形外科へ戻り痛み止めを飲むことになった。痛みは少し弱くなったが、一年間過ぎてもそのままだった。
  出産後約一年たった3月、左肩が痛くなった、寝違えたと思いたかった。だが、違った。やはり何もしていないのに突然痛くなった。
 その頃からお尻から腰から背中にかけて太い鉄の棒がねじ曲げられるような痛みが、起き上がる度にあった。26才から常に腰の痛みがあり、1年に2〜3回ぎっくり腰で動けなくなった。出産後腰の痛みは酷くなり、座ることは少しの間でもできなかった。食事も座って食べることはできなかった。娘の世話に手足の関節まで痛くなり、なかなか腰の件で病院に行くまでに至らなかった。近くの接骨院に行ったがよくならなかった。
 6月初めに起き上がると腰に激痛が走った。いつものように少し安静にしていれば落ち着くだろうと思った。安静にしていても、落ち着くどころか激痛を繰り返しどんどん酷くなった。「今までとは違うな」と感じた。駅近くの整形外科でレントゲンとMRIをとった。「椎間板ヘルニアです。画像は悪くないが、今の状態が悪いので、入院治療して下さい。」紹介状をもらい某大学附属病院整形外科へ行った。「椎間板ヘルニアは年齢からいくと普通です。他の病気でもないです。特に整形外科でやることはありません。こういう人は心療内科へ行くといいですよ。」・・・・・・。医師の口調は柔和で滑らかだった。
 この時1才の娘の世話はもちろん、自分の着替えもできず、飲み水をくむこともできなかった。寝ながらおにぎりを食べることも、休み休み苦痛に耐えながら無理に食べた。寝たきりの状態だった。ただただ壁にしがみつきながら隣にあるトイレに行くためだけに自分をとっておいた。トイレに行きたくなるのが怖かった。布団の上で足を動かしただけでも激痛だった。右、左、上、下どちらを向いて寝ても痛かった。手を動かしても、腰以外のところに触れられても、激痛だった。痛みはお尻、腰、背中、太もも、膝下、足の甲と移動した。寝ているだけなのに酷くなっていった。腰の激痛から2ヶ月たっていた。7月
になっていた。午後から急に暑くなってきた。自分で服を脱ぐことも、すぐそばの窓を開けることもできなかった。気持ち悪くてとてもだるかった。携帯の電池が切れていた、固定電話にもたどり着けなかった。夫が帰ってくる前に「このまま熱中症で死ぬのかな」頭ももうろうとした。
 「殺してくれ!」半分本気でうめいていた。
ただ寝ているだけなのに激痛におそわれる。痛みがお尻腰背中太もも膝下足を移動している。道路のアスファルトに亀裂ができ深く裂けていく、これが自分の体の中で繰り返し起こっていた。この拷問から逃れるには死ぬしかないのか? 1才の娘がいることも関係なかった。娘のことをあれこれ思考する力もなかった。ただただこの拷問から逃れたい一心だった。

 父が「線維筋痛症という病気がある、調べてみたら」と言った。自分では調べることもできなかったので、夫にどこの科で診察する病気なのか調べてもらった。一番近いところで、H病院のリウマチセンターだった。以前の2つの病院では、ロルカム、ロキソプロフェナトリウム、エペム、メチクール、ボルタレン座薬などを処方された。いずれも効果なく、私は寝たきり状態であるのに、さらに痛みが襲っていた。
 私は痛い中、夫に休みをとってもらい連れていってもらったところで、また「何でもないです、心療内科に行け」と言われるのが目に浮かび行く気持ちがしなかった。
 子育てのことや自分の体調のことで出産時から相談にのってもらっていた、子供家庭センタ−のKさんに電話をしてみたら、「一度行ってみよう、違ったらまたそこから先のことは考えればよいのだし、出産前から苦しんでいるのは事実だから、私が一緒に行くから」と言ってくれた。病院に一緒に来てくれるという言葉で、私は行く気持ちになってきた。

 当日、夫の車に乗せてもらい病院に着くと、Kさんがストレッチャーを用意して待っていてくれた。心強かった。ストレッチャーで待っている間にどこが痛いか等聞かれ、点滴や薬を飲むように言われた。ここなら放り出されないかもしれない、少し希望がわいた。 O先生から「慢性疼痛症です、来週血液検査とレントゲンをとります」と言われた。「ああ、やっと病名がついたのだ、診てくれるのだ」と思って涙がでた。
腰からお尻にかけてトリガーポイント(ノイロトロピン)注射をして、スーパーライザーをあててもらい、お薬を1週間分もらって、帰った。家に帰って寝ながら、夫に「私助かるのかな?もう放り出されないよね!」と何度も言った。「朝、昼、夕、寝る前と1回1錠1日4錠飲むようにと。」その通り飲んで寝た。
 
 次の日起きると、何か違う、安心感が溢れた。横になって寝ていれば、激痛がおそってくることはなかった。私に平和が訪れたのだ。

 今、私は「普通の日常生活がおくれたらいいなあ」と思えるようになってきた。以前はそう思うことすらできなかった。
 もうひとつ変化したことがあった。枝豆を食べた。枝豆を皮から押し出しても手指の関節が痛くないのだ、普通だ、普通ってこれだなと思った。長く忘れていた。

次の病院の日まで、お薬があるか心配になり何度も残りを数えた。
それ位、今までと飲み始めてからは私の体は変わった。1週間後の病院の日、院内ではレントゲン室、生理検査室、診察室まで歩いた。杖と壁をつたい歩き休み休みながらも歩けた。たったの1週間で、自分も信じられない位だ。

その後、夜中や朝起きた時に痛みが大きいため、お薬が朝2錠昼夕寝る前1錠と1日5錠となった。 スーパーライザーは病院に行くと毎回あててもらった。尾骨から背骨まで骨に沿って、肩甲骨、腸骨など、特に骨にあててもらうと気持ちがよかった。
痛みが酷い時は注射もした。注射はその時はよいのだが、効果は1〜2回に感じた。

9月になり、4ヶ月ぶりに手伝ってもらいながらシャワーを浴びることが出来た。どこかから生還した気分だった。
時間はかかるが、人の手を借りなくても、自分で着替えが出来るようになった。

10月になり、週に1〜2日位短い距離だが、外を歩くようになった。
髪もシャワーで洗ってもらうようになった。5ヶ月位痛すぎて洗ってもらうことすらできなかったのだ。

ある朝起きると突然背中が痛かった。寝違えたと思いたかったが、やはり違った。特に左の背中が痛く、先生に言うと硬くなっているとのことで、別のお薬も飲むことになった。痛みが少しやわらいだ。体、特に足が締め付けられて痛いことが多かったが、このお薬を飲み始めてからは、締め付け度合いがやわらいだ気がする。

11月になり、病院へ行くのに一部電車に乗った、前後はタクシーだった。一部でも電車に乗ることが出来、急に世界が広がった気分だった。それまで、病院へは往復全てタクシーだった。

12月になると外の公園まで歩いていく回数も増えてきた。
今度は両方の肩の前側と両方の鎖骨の肩に近い部分が痛かった。布団が痛く、毛布だけにしたがそれでも痛い、軽い毛布を買った。痛みには波があった。

1月になると、毎日のように公園まで歩いた。歩くことが日課になってきた。
歩きながら思う。「あの時、H病院でO先生に診察してもらっていなかったら、今頃どうなっていたのだろう。」考えると恐くなる。  現在、1才の娘は保育園とベビーシッターに預け、家にはお手伝いさんが来ている。貯金を切り崩して生活している。

 これから、「もう少し歩く距離が伸ばせたらよいなあ。」
「病院へ行くのも、全て電車で行けたら、楽しくなるかな。」
長い間、お店やスーパーなどに行っていないので、 「お店やスーパーをぶらぶら出来たら楽しいだろうなあ。」
この手記が線維筋痛症の痛みで苦しんでいる方の参考になれば幸いです。

Bさん 40代女性

私のリウマチ体験をお話しする前に、まずは私のプロフィールを簡単にお話しさせて下さい。 私は現在41歳。家族は夫と子どもが二人、子どもは高校生と中学生になります。仕事といいますか趣味といいますか、二ヶ月に一度地元で落語会を開催する席亭をしております。
私が体験したことが少しでも皆さまのお役に立てればと思い、お話しさせていただきます。申し訳ありませんが、名前は匿名とさせていただきます。

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私が関節リウマチを発病したのは、11年前30歳の秋でした。その頃はまだ子どもが小さく、上の子が幼稚園の年少、下の子が2歳でした。上の子が入園した幼稚園が、園バスなし、給食なし、延長保育なしとないないづくし、親のサークル活動や役員活動も盛んで、幼稚園での生活について行くのがやっとの毎日でした。同時にママ友とのつきあいも始まり、人間関係に悩むことも増えていきました。そんな9月のある日、朝起きたら首が回らなくなっていました。ひどい寝違いをしたもんだとばかり思い込み、自然と治るのを待ちましたがなかなか治りません。そのうち右手首が腫れて痛みで庖丁が持てなくなりました。主婦が庖丁を持てないのは困りますので、ちょうど下の子が中耳炎で近所の総合病院の耳鼻科にかかっていたのをきっかけに、同じ病院の整形外科を受診しました。
 そこで医師に「リウマチの疑いがあるので血液検査をしましょう」と言われたのです。当時の私はリウマチがどんな病気か全く知りませんでしたので、帰宅後、今ほど情報量はなかったものの、パソコンを使いインターネットで調べました。そこにはリウマチは完治しない難病で身体障害者になってしまうと書かれているではないですか。これから私はどうなるのか、ショックでしばらくは何も手につかなかったのを今でも鮮明に覚えています。

その整形外科では翌週に検査結果が出るとのことだったので、1週間待てば、もし万が一リウマチだったとしても治療が始まる。そうすればさほど悪くならずに済むかもしれない。そもそもリウマチじゃないかもしれない。と淡い期待を持っておりましたが、とても長い1週間が過ぎて、いよいよ検査結果が出ても医師はリウマチかどうか判断できず、リウマチ疑いとしか言えないとのことでした。再度採血され、痛み止めを処方してもらい、また一週間後と帰されました。何故、症状があるのに診断がつかないの? 私の不安はピークに達していました。
そうこうしているうちに、朝布団をはぐことが出来ず起き上がれなくなり、トイレでパンツも下ろせなくなりました。車の運転も痛みで出来なくなり、幼稚園への送り迎えも辛くなりました。あごが痛くてご飯も満足に食べられなくなり、お箸やスプーンも持てなくなっていきました。このままでは全く動けなくなってしまうと焦った私は、さらにパソコンで調べ、当時住んでいた川崎市にある大学病院にリウマチ膠原病内科があることを知りました。その頃には私もリウマチへの知識が少し増えており、早期に治療開始すると予後が良いと言うことが分かっていたので、もう待てないと紹介状を書いてもらい、転院することにしました。その転院先の病院で岡先生と出会うことになります。

岡先生は私の関節を触診してすぐにリウマチと診断され、免疫抑制剤のリウマトレックス、痛み止めのロキソニンを処方してくださり、積極的に薬を投与する治療が始まりました。「リウマチは早期に治療すれば大丈夫ですよ」とおっしゃって、この時の先生の素早い診断と対応にどれほど救われたか分かりません。
この時、「リウマチは怖くないぞ !」と自分に言い聞かすことができました。
その後リウマトレックスの量も徐々に増え、ステロイドも追加されましたが、治療が始まって半年後には腫れが引き始め、朝のこわばりや痛みも少しずつ落ち着いていきました。

この頃になると家族の私に対する対応も変化していました。家族とは言え私のリウマチの痛みを完全に理解するのは不可能ですから、最初の頃は主人も戸惑ったと思います。本当にこんな事も出来ないの?と聞かれたこともありますし、家族として支えていけるのか悩んだこともあるそうです。喧嘩になることもありました。しかし、子どもが小さかったこともあり、悩むより日々流れていく毎日の暮らしをどうにかせねばと奮闘してくれました。朝の子供たちのごはんやお弁当作り、幼稚園への送り、買い物等、今までやったこともなかった家事を積極的に手伝ってくれるようになりました。母や義母も交替で手伝いに来てくれるようになりました。幼稚園のママ友も私の病気を理解しようとしてくれて、幼稚園のお迎えや私が病院へ行く間子供たちを預かってくれたりもしました。この頃、私がどれだけ周りの方々にお世話になったか、話し出したらキリが無いくらいです。


その後、私のリウマチの症状は一進一退を繰り返す状態で、日常生活に大きく困ることはなくなったものの、寛解に近づいているという実感はありませんでした。が、この状態がキープできればそれで御の字、もうそれ以上望んではいませんでした。先生には継続して触診や血液検査やX線など、きめ細かくチェックしていただき、薬の微妙なさじ加減もあり、安心して暮らすことが出来るようになっていきました。医療に不信感も一度も持つことがなかったことは、私のリウマチ生活の中で、とても幸せなことだったと思っています。

知り合いの中には、「足の裏にシートを貼ると治る」とか「座ると良くなる椅子がある」と民間療法を勧めてくる人もいました。様々な怪しい誘惑がありましたが、今まで長い間研究された歴史がある医学を信じ、患者に真摯に向き合って下さる先生を信じ、治療に取り組んできたことが結果的には近道になったと、今は実感しています。

それから2年ほど経った頃、リウマチ治療に新薬が登場しました。レミケードという点滴薬です。生物製剤で大量生産が出来ないこともあり、高価でかつ入院が必要でした。先生からはできるだけ生活の質であるQOLを高めようと、この治療を勧めていただき、家族や友人からの支えもあって、レミケードでの治療に踏み切りました。1回目治療後から炎症反応の数値であるCRPが正常値近くまで下がり、痛みも腫れもすーっと引いていったため、「これはいけるかも」と実感したのですが、4回目の入院治療で発熱と白血球の低下の副作用、退院後には咳が治らなくなり、残念なことに治療中止となってしまいました。レミケードはメトトレキサートと併用となっていたため、メトトレキサートも中止となってしまい、リウマチの治療薬をステロイド以外変更しなくてはならなくなってしまいました。中止は残念でかなり落ち込みましたが、ここでレミケードを使ったことで、CRPとMMP-3が正常値まで下がり、治療方次第では私のリウマチも押さえ込むことが出来るんだという自信が沸いてきました。欲と言っても良いのかもしれません。

レミケードとメトトレキサートが中止となった後、今度は先生からネオーラルという免疫抑制剤を勧めていただきました。リウマチの治療にはあまり使われていないようですが、これがまた私には合ったようで、レミケードの治療中止から7年経った今でもCRPが正常値を超えることはありませんし、関節の症状もありません。途中ステロイドも止めることができ、現在はネオーラルもわずかな量をお守り程度に服用している状態でしたが、最近中止しました。完全な寛解が現実のものとなろうとしているのも、治療の分かれ道に立ったとき、先生の的確な判断があったからこそだと思っています。

リウマチにどう向き合って行くかという点では、自分なりに工夫していることがあります。具体的には、リウマチになってからというもの、できるだけストレスを溜めないで暮らすよう試行錯誤してきました。リウマチになる前は、自分のことより家族のこと、私より周りを優先して暮らしてきました。でもリウマチになってからは自分のことを優先する時を増やしました。子どもを主人に預けて友達と出かけたり、好きな落語を観に行ったり、病院の待合室で長く待つときは、失礼ながら周りに座っている方で人間観察をして勝手な妄想をしたりして楽しむようにしました。今でも朝の皿洗いやゴミ捨ては主人の仕事ですし、成長した子供たちにも手伝いをさせて、自分が辛いと思う上限に到達しないようにしています。上手くサボっていい加減に暮らすのが、今の私にはちょうど良いようです。こんな私でいられるのも、家族や周りの人々が支えてくれるからこそで、岡先生と出会って最新のリウマチ治療を受けることが出来たということも、本当にありがたく、感謝してもしきれないほどです。
 私より長い間リウマチに苦しんでこられた方や、患者さんを支えている御家族の方が、本日、この場にたくさん来られています。私のような恵まれた立場から申し上げていいことなのかどうか分かりませんが、焦らず、でも絶対にあきらめずに医学を信じ、希望を持ってください。リウマチの治療はどんどん進化しています。私も最初は完全な寛解ができるなんて、とても思えない状態でした。  本日は土曜日の午後というお休みの日にお越しいただき、私の話を最後まで聞いていただきまして本当にありがとうございました。 最後に一言。リウマチは難病ではありません。
症状がなくなる寛解は現実的な目標です。まだ少ないですが、治癒することもあります。 だから、皆様、希望をもって下さい。
私の経験談が皆さまのリウマチ治療の希望の一つにでもなれば、本当に嬉しく思います。 ご清聴ありがとうございました。

Cさん 40代女性

【発症】
「何だか、手の関節がこわばるなぁ・・・」と自覚したのは、かれこれ5年前。そしてH24年に入り、手関節のこわばりはひどくなり、関節痛も加わるようになった。足首の関節も若干痛かったが、手関節の痛みはひどく、訪問看護の仕事をしている私にとっては辛い日々の始まりとなった。

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【どんな痛み?どんな気持ち?】
 しばらく様子を見ていたが、症状は軽減することはなかった。朝、まず起床してからこわばった手をグーパーグーパーと何回も動かさないと、家事すらできない。手指に力を入れると痛みがあり、包丁を使うのもままならず、コーヒーカップを持つのさえ辛かった。とにかく手関節が痛い!字を書くのも、運転するのも着替えをするのも痛みが生じる。そのうち肘関節や肩関節も痛み、夜になると両腕を切り落としたい心境になった。気分は落ち込むばかりの毎日であった。

【ドクターショッピング】
 症状から「リウマチみたい」と感じていた。また、私の年齢は4○歳。俗にいう更年期障害が始まる年齢。ネットで更年期障害を調べると、症状の中に「関節痛」も書いてある。この関節痛は「リウマチ」か「更年期」によるものだと確信した。確定診断と痛みをとる為に、病院を渡り歩いた。婦人科、一般整形外科、手外科、リウマチ内科・・・合計5か所に通院した。しかしどの医師も「リウマチではない、更年期でしょう」「更年期で関節は痛くならない、整形に行きなさい」と、どの医師も自分の科ではないと言い、たらいまわし状態だった。途方に暮れ、「じゃあ、何でこんなに痛いの?診断できる医師はいないの?」苛立ちを覚えた。

【めぐり会い、信頼できる医師】
 諦めかけていた頃、リウマチ科の医師が「線維筋痛症」かもしれないと、H医療センターのO医師に紹介状を書いてくれた。私は半信半疑であったが予約を入れた。そこでやっと「線維筋痛症」と診断を受け、薬が処方された。しかし初めの薬は全く効果がなく、薬を変更した結果、劇的に痛みが軽減した。一般的な鎮痛薬ではなく、ちょっと特殊な薬だった。長い間苦しんだ痛みとの生活から抜け出すことがようやく出来た。今でも仕事を続けられている。やっと信頼できる医師にめぐり会えた。

【線維筋痛症】
 まだまだ世間一般的に知られていない病気。検査をしても何も分からない、医師ですら診断しにくい病気。全国にこの病気で苦しんでいる患者は沢山いると感じる。どうか諦めないで、ちゃんと診断でき、皆様が信頼できる医師とめぐり会うことを心から切望します。

Dさん 50代女性

私のリウマチ体験記

今日おいでになっている方の中には、リウマチで、身体も心も苦しんでいる方もたくさんいらっしゃると思います。
私の体験談が皆さまの参考になるかわかりませんが、お役に立てれば、という願いを込めてお話しさせていただきます。

私は26歳の時に発病しました。ちょうど12年ほど前です。その頃私はフランス・パリの音楽院に留学中でした。クラリネットという楽器でクラシック音楽を学んでいて、国際コンクールを受ける準備をしていた頃でした。体のだるさに何となく気付きながらも、忙しい毎日を送っていました。最初は歩く時の足の指に違和感を覚え、徐々に、朝起きた時の手の指のこわばり、膝の痛みが大きくなっていきました。さすがに何かの病気ではないかと疑い、病院へ検査に行きました。

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血液検査で少しだけリウマチ因子の値がプラスでしたが、現地の医師に、疲れが溜まっていると数値が上がるケースがあるのでリウマチではないでしょう、と言われ、それから数カ月ほど放置していました。
その間、指の関節や手首足首も腫れ、膝の痛みもひどくなっていき、日本に一時帰国した際に病院で検査をしたところ、典型的なリウマチの症状だと言われ、治療に入りました。

抗リウマチ薬、ステロイド、鎮痛剤等を処方していただき、自宅療養になりました。しかし日に日に症状は悪化し、腫れと痛みは全身に回り、腕も曲がったまま、膝には毎日水が溜まり、関節内に直接注射をしても翌日には水か溜まってしまうという状態で、顎も腫れ、お箸も持てなくなり、幼児のようにスプーンをにぎりしめておかゆを食べる状態にまでなってしまいました。

その頃は、どうして自分がこんな風になってしまったのか、その後の人生に何の希望も持てませんでした。このまま寝たきりになって、両親に介護をされたまま一生を過ごすのか・・・両親が年老いてしまったらどうするのか・・・とそんな事ばかり考えていました。
外にも出られず、ただただ家の中に引き籠って、自分の身体が不自由になっていくのを待つだけの日々でした。昔から目指して頑張っていた音楽家としての活動も諦め、楽器を手にする事なんて考えもつきませんでした。日々の生活に精いっぱいで、両親にも辛く当たってしまいました。

そんな私を見かねて、両親がいろんな情報を集めてくれ、首都圏にとても良い先生がいるからという事で、自宅のある愛知県から、川崎まで通うことになりました。一人で歩くこともままならない私を心配し、父が車で川崎まで送ってくれました。わらにもすがる思いだったことを覚えています。それが、岡寛先生との出会いでした。

先生は、とても丁寧に話を聞いてくださり、説明してくださって、私の心がどれだけ救われたかわかりません。これまでの治療から切り替えて、積極的に薬を投与する治療法に切り替え、副作用等の心配もあったものの、まめに血液やX線の検査をすることでチェックし、安心して治療を受けられる体制をつくってくださいました。

それから半年ほど、本当に徐々にですが体中の腫れがひいていき、少しずつ歩けるようにもなってきました。日常生活のほんのちょっとした事が自分でできるようになったのを、こんなに幸せだと思ったことはありません。私の気持ちも少しずつ上向きになりました。

川崎の病院にも新幹線で一人で行くようになり、エレベーターのないところでは階段の手すりを使って一歩一歩登り、健康だった頃には気付かなかった、身体の不自由な方の大変さを身に染みて感じました。周りから見たら、年頃の女性がオシャレもせず可哀そうに見えたかもしれませんが、私自身は、寝たきりを卒業して外出し、日常の小さな幸せを感じられる事が嬉しくて、とても前向きになっていたのを覚えています。健康だったころには当たり前だと思っていた事が、実はとてもありがたい事なのだと気付きました。

それから、この先の長い人生、もし身体が思う通りに動かなくても気持ちが元気なら何とかなる!と自分に言い聞かせ、まずできる事から行動するようになりました。毎日近所の図書館に、リハビリも兼ね時間をかけて歩いて出かけ、フランス語の勉強をし直し、資格を取りました。そんな日々を送るうちに、時々通訳の仕事がいただけるようになり、ほんの少しでも、社会にでて働いて報酬を得る事がどんなに嬉しかったか、はかり知れません。

症状がひどかった頃には寛解にまでたどり着けるとは思ってもいませんでしたが、岡先生の治療の元、発病から2年ほどして寛解状態になりました。
少しずつ体調が回復してくると、次はこれ、次はこれ、と、欲も出てきて・・・、指の腫れもありましたがクラリネットの練習もしてみることにしました。2年のブランクはとてつもないものでしたが、音が出る喜びは、子供のころ初めて楽器をさわった時の純粋な気持ちと同じでした。

少しずつ無理をしないように、でも欲を持って。そんな事を繰り返しているうちに、生徒を教えるようになり、演奏の仕事がくるようになり、舞台にも立てるようになり・・・。発病前に思い描いていた、大きな大きな夢の世界ではありませんでしたが、その当時の私にとっては贅沢すぎるほどの現実でした。一つ一つの仕事を丁寧に無理をせず、を繰り返しているうちに、体調もだんだん良くなっていきました。

その後、半ばあきらめていたのですが、私も人並みに結婚して子供を授かりたいという気持ちが強くなり、薬を減らしていけたら、と思い、先生に相談しました。先生も私の気持ちをお察しくださり、十分に経過を観察しながらやっていきましょう、とおっしゃってくださいました。

その間、32歳の時に私の病気に対して何の隔たりもなく理解を示してくれた今の主人と出会い、結婚しました。いつか子供を授かる時の為に、と、抗リウマチ薬を少しずつ減らし、ステロイドに切り替え、そしてまた少しずつ薬を減らし・・・発病から10年経って、何と、薬なしで生活ができるようになりました。それから約3年、現在まで治療薬を飲んでいません。

症状がひどかった頃の後遺症なのか、今でも時々膝が痛んだり、違和感を覚える事はありますが、山へのハイキングやウォーキング等軽い運動はこなせるようになりました。

寛解に至ることすら夢のようで、まさか完治するなんて想像もしていませんでしたが、心の奥底では、どこかで希望を捨てていなかったのかもしれません。本当に、岡先生との出会いのおかげです。

投薬がなくなった後、安心して子供を持てるという希望に近づきました。しかし私の場合は少し高齢という事もありなかなか授からず、不妊治療に踏み切りました。私の生活は、つくづく病院と縁があるのだな、と思いますが、思いが通じたのか、2年近くの不妊治療を経て、現在念願の妊娠6カ月になりました。今は、無事に元気なお腹の子に会えることをただただ願っています。

リウマチを発症してこの12年間で、無理をせず、でも少しずつ欲ばりながら、明るく前向きに気持ちを持つことがとても大事なのだと教えられました。
これから先の人生、大変な事がたくさん待ち受けているとは思いますが、乗り越えられる自信がついたように思います。そして、岡先生をはじめ、両親や主人、主人の家族、温かく見守ってくれた友達に感謝の気持ちでいっぱいです。リウマチの薬も日々進化し、その恩恵を受けられた私は、とても恵まれています。

リウマチ患者の皆さんの中には、もっともっと長い間苦しんでいらっしゃる方が大勢いらっしゃいます。私が発言するのもおこがましいですが、無理して頑張らないでください。でも、ほんの小さな事でもあきらめず、希望を見つけ、笑顔を忘れずに日々を過ごしていただけたら・・・。私のように完治したケースもあるという事を心の隅に留めてくださったら・・・。私のこの体験談で、ほんの少しでも勇気づけられた方がいらしたら・・・と願っています。

昨年春に別の会場でお話させていただいた時は、同時にクラリネット演奏もさせていただいたのですが、今回は先生が私の身体の状態をお気遣いくださり、お話だけとなりました。ですので、いつか私の演奏でみなさんの心を癒し、助けになることができたら・・・、とても幸せです。


ありがとうございました。

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